2018年05月01日

裁判員は絶対に引き受けるべき、、、

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この日はとある素敵な女性とランチを楽しみ、
その後近くのムーミンカフェなるカフェで、
美味しいソフトドリンクを楽しみ、
楽しい美味しい、素敵なひとときを過ごしました。


さて、この女性、とある事件に関して、
裁判員として参加されたようで、
その際の話を色々と詳しく、わかりやすく
聴かせてくれました。

ちなみにまろんは法学部出身で、司法試験を
3度受験し、確固としたリーガルマインドを
身につけているものの、実際の現場の姿、
現実のことについては、よく知らなかったため、
やはり現場の話、というものが大事であることを
痛感させられました。

ちなみにご存知の方も多いかもしれませんが、
裁判員には守秘義務が課せられています。
そのため彼女からまろんに裁判員としての
経験の話をすることは、守秘義務違反ではないか?
と思った方もいるかもしれませんが、
それは完全なる誤解です。

守秘義務を守られなければならないのは、
以下の2点に限定されます。
裁判員の参加する刑事裁判に関する法律によると、
1.構成裁判官及び裁判員が行う評議並びに構成裁判官のみが行う評議であって裁判員の傍聴が許されたものの経過並びにそれぞれの裁判官及び裁判員の意見並びにその多少の数(以下「評議の秘密」という。)については、これを漏らしてはならない。(70条)
2.裁判員は、第七十条第一項に規定する評議の秘密その他の職務上知り得た秘密を漏らしてはならない。(9条)

簡単に書けば、
・評議=有罪か無罪かの議論の過程
・有罪に何票、無罪に何票などの個別具体的な話、
・機密情報や個人を特定できる情報などであって、
裁判で公になっていない秘密の情報
に対しては守秘義務が課せられているが、
それ以外の情報であれば、どのようなことを
話をしても問題ないということです。

そもそも裁判は公に、公開されているもので、
たとえば被告人の名前などであっても、
裁判で公になっているものですので、
その範囲内にあるのであれば、話していいのです。

なので裁判員経験者の方は、上記守秘義務の範囲外の
ことであれば、近くの方などに積極的に話をしてみては
いかがでしょうか。

ちなみにこのことは裁判員には説明されるとのことです


さて、とかく何らかの制度が確立されてしまうと、
様々な問題点や課題などのマイナスの点については、
広く記事になりますが、
裁判員制度がはじまって、その現場でどのような
良い点、プラスの点が生じたかについては、
記事になることはなく、そもそも注目されません。

凄惨な現場の写真を見せられたとか、
欠席者が多いとか、
わかりにくい資料ばかり見せられて、よくわからないまま裁判になったとか、
自分が出した結論によって、被告人ないしは被害者が
どのような未来を迎えることになるかが気になるし、
責任を感じるし、プレッシャーがある
などといったことが問題や課題がよく取りざたされています

確かにそういう問題や課題はあるでしょう。

しかし、裁判員制度は、現実の世界と完全に乖離した
思想・良心が培われてしまった裁判官によって、
信じられないような不当と疑われる裁判が
続いてきたという現実への対策として、
困難な過程を経て、できあがった国民参加型の制度です。

国民、市民が広く、裁判に参加することで、
現実との乖離を低減することが急務で、
それを改善する契機とすることが必要不可欠だったのです。

ちなみに、まろんとしてもうひとつこの制度に
期待していたことがあるのですが、
それは国民が、国民として、市民として、
国家や権力、権威などの上から与えられるという
我が国の国民の悪しく風習を打開し、
国家や権力、権威にしっかりと対峙して、
自立性、自律心をもって、取り組むことが
できるようになる国民へと生まれ変わる契機と
なればということでした。


裁判員制度も法律が2004年に成立してから
今年で既に14年を経過し、その間相当な
紆余曲折があったことは想像に難くないですが、
今日素敵な女性とランチのときに聴いた話では
制度は相当に洗練され、工夫され、
裁判官、検察官、弁護人それぞれが制度に合わせて、
様々な努力をされてきたことはしっかり、
はっきりと理解できました。

裁判員への説明、わかりやすい資料の作成、
評議の雰囲気作り、コミュニケーション、
ポイントの整理などなど、
まろんが法律を勉強していたときの
司法界からはかなりかけ離れている印象さえもちました。

正直ここまでに至っているとはと感心したほどで、
こういうところに健全な国民性を感じますし、
さすが、というべきだと思います。

また、実際に裁判員になった人の中には、
裁判員になったことで自我に目覚めた?というような
人もたくさんいたようで、特に若い人には、
そういうまろんが期待した効果が大きく生じているようです

もちろん時間を使って、裁判員として
働くわけですので、正直めんどくさいことや、
難しいことはあるとは思いますが、
その経験は「未来」の自分の糧となるのは
確かだと思いますので、機会が巡ってきたら
絶対に引き受けるべきことであると、
今日の素敵な女性とのランチに確信しました。

ちなみに裁判員制度については、過去に記事
書いたことがありますので、そちらもご参考まで
posted by まろん at 18:27| 東京 ☀| Comment(0) | 制度 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月23日

「真実」こそがすべてのはじまり

アメリカの大統領が変わり、世界は変わろうとしている、、、

これはある意味で世界的な共通認識に近いこと
なのかもしれませんが、実はこれは単なる目に
見える形で現れた単なる変化であって、
世界の変化は既に、何年も前にはじまっています。
それは当然のことながら、我が国日本にも等しく
当てはまることでもあって、今その潮流の中で、
我が国も世界も漂っているというのが、「真実」
近いでしょう。

では、このことに我々のどのくらいの人が気づいているのか?
気づけているのか?
気づけていないとして、何故気づけていないのか?

その根本的な理由は以下の3つだけで、この3つのことに
思いを至らすことができれば、我々の認識は変わり、
そして我々が今後何を考え、何に気づき、何を目指し、
何をしなければならないのか?について、
我々自身の道筋を築き上げることができます。

つまり、まろんブログの永遠のテーマでもありますが、
我々は「過去」→「現在」→「未来」の過程の中で
生きているわけですが、その過程で輝ける、
希望に満ち溢れた「現在」→「未来」を築くには、
「過去」を含めた「真実」をしっかりと認識し、
理解することが必要不可欠で、それがすべての
第一歩になります。

ではその3つとはなんでしょうか?
1.「真実」を入手する手段としての既存のマスコミの退廃
2.既得権益の自己保身、抵抗、資本主義の原理
3.人の感情の中に内在する人間の弱さ
心の闇、妬み嫉みなどのマイナスの感情

1.についてはもはや語る必要もないかもしれません。
まろんブログでも何度か書きましたが、まさに退廃し
尽くしています。
まずはテレビから入手する情報については、
一切の何の価値もありません。

そして新聞、週刊誌についてもほぼそれに近い状況です。
見る価値も読む価値もありません。
ただ、まろんはネットを通じてそれらの情報を入手し、
判断基準にすることはありますが、それは単なる
その背景、裏を読むために利用するだけで、
その情報をそのまま信じて、判断基準にするなんていう
愚かなことはしません。というか出来ません。

というのは、彼らには彼らなりの事情があって、
それが2.にも深く関わってくるのですが、結局のところ
彼らの収入源は資本主義の原理に基づく広告収入に
依存せざるをえないがために、本来は彼らが伝えよう、
伝えたいと思っているかもしれない情報なり、
「真実」であっても、それが伝えられないというジレンマに陥っているからなのです。

つまり、「真実」を伝えるのが彼らの役割であり、任務であるはずが、
それをするためには彼らなりに収入を得なければ
ならないという事情があり、その収入を得るためには、
資金を提供してくれる我が国企業や、または
外国の工作機関などの要求、要望に
対応しなければならず、どれだけ我が国の国益に
とって重要な「真実」であっても、それを伝えられないのです。

もちろん、彼らが提供する情報を選別し、精査する
人々が偏った思想の持ち主である場合も、
そういう傾向にはなってしまいます。
それは比較的資金が潤沢なマスコミであるNHKが
ここに該当します。

2.について、もう一つ書いておかなければならないのは、
マスコミを含めた情報の提供者側は、戦後以来ある特定
の思想や理念に基づいて、世の中を先導することに専念し、
加担し、社会は、その思想や理念に基づいて、
構成されてきてしまいました。
それは決して「真実」に基づくものではありません。

そこについては、ある意味でまろんも"被害者"と
いえるのかもしれません。

つまり、その特定の偏った思想や理念に基づいて、
それが絶対正義であるとして語られ、発信され、
我々のようなある意味で"愚民"はそれを信じ、
信じ込まされ、それが社会の奥深くまで浸透し、
その前提?に基づいて様々な人々の生活の糧となる
制度や構造が構築され、それが確固とした
システムとなって築きあげられてしまったのです。

それは今や既得権益として社会に根深くはびこり、
そしてこういう既得権益は変化を特に拒み、
醜い抵抗を繰り広げ、「真実」から目をそむけ続けます。

それは何も我が国だけではなく、今回大統領が
変わったアメリカのアメリカ国民にも共通している
ことでもあるのです。
我が国だけが「真実」から目をそらされ、
アメリカは報道の自由も、取材の自由もすべてが
確保された自由の国、、、というような空想も、
我々が勝手に信じ込まされている"洗脳"であると
気づくときが今やってきているのです。

最後の3.はいったいどういうことなのか。
これは言わば人間の本能的な感情といえますが、
最近のマスコミが提供する情報はまさに
この種の類ものばかりだと、気づかれている
方も多いのではないでしょうか。

なぜこのような本能的な感情が、こうもマスコミを
にぎわし、我々の日常の会話をも侵食しているのか?

それは誰もがかかえる感情であるから面白い?
わかりやすい?、、、ということもありますが、
実は我々が奥深くのところで世界の、社会の変化を
なんとなく感じはじめているものの
それが何なのか、何が原因なのか、が認識できず、
「真実」がわからないがために、
不安感を感じていることに起因しているのではないかと
まろんは考えています。

つまり、思考停止をしてしまっている、、、
思考停止させられてしまっているともいえるかもしれません。
思考停止していると、"変化"を認識したり、理解したり
することに興味が持てないのは当然かもしれません。


さて、こうやって観てくると、現在において、
「真実」を入手することが著しく難しい状況では、輝ける、希望に満ち溢れた
「現在」→「未来」を築いていくことは難しいようにも
思えてきます。

しかし決してそんなことはありません。
まずは自らの意識を変革することが重要ですが、
まずはこんなことからはじめてみるのはどうでしょうか?

①提供される情報の裏側を考えてみる
②自分自身の心や感情に、率直に真摯に向き合う
③"変化"を恐れない
"変化"の中で、その先で自らの歩む道、
歩むことができる道を探してみる

こんな取り組みをはじめていくと、様々な扉が、
輝ける、希望に満ち溢れた扉が開けるのだとまろんは信じています。
posted by まろん at 01:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 制度 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月17日

死刑廃止論~結論編~

※この記事は「死刑廃止論~本章~」の続編です。
※この記事は「司法の崩壊~なぜ被害者は癒されないのか?~-第二章-」の続編です。


まろんブログでは、「死刑廃止論~序章~」のタイトルで、
死刑廃止論に関する賛成論と反対論を詳細に論じ、
「死刑廃止論~本章~」のタイトルで、死刑廃止論に関して、論理的に
まろんの私見を詳細に論じることで、
最終的にまろんは「死刑廃止論」を取っていることを明示しました。

先日、死刑廃止論者である法務大臣が死刑を執行したことで、
若干この議論が再燃しつつある傾向にありますが、
正直なところ、この問題について、今までの制度を抜本的に変革して、
死刑廃止に向けて、国民的な結論にたどり着くのは
なかなか難しいというのが実感するところです。
少なくとも今から20年以上は実現しないでしょう。
実際のところ、最近の我が国の世論は80%程度死刑存続に賛成しているようです。

当然のことながら、まろんが私見として死刑廃止論を取っているとしても、
今すぐに変革することまでを望んでいるわけではありませんし、
そもそも、そこに至るまでに辿らなければならない
「過程」があると感じていますので、
20年後に我々が死刑廃止を選択できるかいなかについて、
今議論しておかなければならないことを提起することが
いずれ閉鎖されるまろんブログにとって、ひとつの使命であるように
勝手に思っています。(笑)


さて、この問題について学術的な部分は、「死刑廃止論~序章~」
「死刑廃止論~本章~」に記載したとおりですが、
この中で抜けていた論点が、被害者の立場、被害者感情です。
そこで、死刑廃止論の結論編として、この部分を取り上げて
論じたいと思います。


愛する家族や恋人、親友などを殺害、いや残虐な方法によって
殺害され、目を背けたくなるようなむごい殺され方をされた際に、
その惨状を目の当たりにし、変わり果てた愛する家族や恋人、
親友に直面した被害者家族や関係者は、加害者に対して復讐心を持ち、
加害者を殺したい、同じ方法で、同じ苦しみを与えることによって、
殺してやりたい、という感情を抱きますが、これは当然であり、
まさに自然の摂理でもあるでしょう。
このことは、まろん自身が、犯罪心理学を学ぶ際に身につけた
「感情移入」によって
、被害者と同じ状況に自らを陥れたことで
湧き出した感情と同じであったことで、個人的に実証しています。

しかし、現在の法律では私刑(復讐や敵討ち)が許されておらず、
刑罰が国家によって独占されている実情に鑑みると、
被害者が加害者に対して私刑を実行できないのであるから、
国家がその代替として、死刑という刑罰によって加害者に制裁を
科すことが必要となってくるのです。
そして、現在までの間、このような体制と制度の下で死刑制度が
運用され続けてきたのです。


では何故今死刑廃止なのか?
死刑廃止を論じる人々は、このような被害者感情を理解せず、
また知ろうともせず、いやわかったようなふりをして、
机上の理論や言わば理想論者としてだけ、死刑廃止を論じているのではないか?
実際に同じような境遇に陥ったら、死刑存続論者に代わるのではないか?
といった説得力のある反論が多々存在します。
事実として死刑廃止論者の中には、実際に被害者の立場になり、
それ以降死刑存続論者に変更した人も存在します。

こうなると結局のところ、死刑廃止論というのは、反論にあるとおり、
被害者感情を無視した机上の理論や理想論であるということになるのですが、
決してそうではありません。

その理由は次の3つです。
一つ目は、被害者感情を刑罰の中に取り上げれば取り上げるほど、
刑罰というものはより厳格に、より重いものに、より細かなことに対しても
刑罰によって規律しなければならなくなり、それはつまりより精巧な
規律国家に成り果ててしまうこと。
二つ目は、まろんブログで何度も書いていますが、現在社会においては、
死刑になるために敢えて加害者となるような案件が増えており、
そのような場合には、国家が加害者の自殺に手助けすることになること。
三つ目は、そもそも犯罪がセンセーショナルに取り上げられているため、
死刑に該当するような犯罪が多発しているかのような錯覚に陥りますが、
死刑に該当するような犯罪件数自体は増加していないこと。

一つ目の理由を具体的に書いてみると、たとえばたまたまわき見運転を
してしまったことによる過失による交通事故によって、愛する家族や恋人、
親友を失った被害者の関係者は、その過失を犯した加害者を
殺してやりたいと思うことでしょう。
たとえ故意に殺害したのではなくても、人はそういう心理によります。
また、現代のような超過酷な勤務状況にある救命救急医が、
人として当然陥る疲れや何日も徹夜を続けた結果襲ってくる睡魔に
負けてしまって、助けることが可能であったかもしれない命を
救えなかった場合に、そのことを知った被害者の関係者は、
その救命救急医を許すことはできないでしょう。
場合によっては殺してやろうと思うかもしれません。

もしかしたら故意によって人を殺害した加害者よりも、被害者の方が、
悪質で、加害者を死刑に処することの方が正義に反するということも
あるかもしれません。
こうやって見てくると、被害者感情と真摯に向き合い、斟酌すれば
するほどに、法律の本質的な部分と齟齬が生じるように感じざるを得ません。
仮に徹底的な規律国家を築き、規律国家となってしまった場合には、
それこそ我々の自由は失われてしまうことになるでしょう。

法律の本質とは、憲法に代表されるように、人の生命や自由を
最大限尊重しながら、最小限の規律で、最大限の国家全体の
統治統括を行うためのものであり、ここに依拠すると、
被害者感情について、それが最大限尊重されるべきものであることは
当然のことではあるが、一定の限界があるということにならざるをえないのです。
この点を思慮した結果が、今の刑法等における刑罰のしくみにあるといえます。

つまり、過失によって起こった犯罪については、その責任の度合いを
低く設定し、当然のことながら死刑に処せられることはありません。
一方故意による殺人については、たとえ被害者が悪質であっても、
死刑に処せられる可能性は残存することになっているのです。

二つ目、三つ目の理由は上記に記載したまさに文字通りの意味です。


ところで、まろんブログで何度か書いたことがありますが、
たとえば「司法の崩壊~なぜ被害者は癒されないのか?~-第二章-」などの記事、
被害者感情を考える上で忘れてはならないことは、
本当は被害者にとって、加害者を死刑に処することだけが
重要なことではないということです。
被害者の方々にとって重要なことは、その事実、被害者となった事実、
大切なものを失ったという事実を、苦悩しながら、
死に物狂いで受け容れる機会を得ること、
そしてちょっとずつ、少しずつ前に進みだしていくために、
必要な援助や心の支え、強さ、勇気をなんとかして手に入れること、
そして我が国の風土にとって特に重要だと思われるのは、
被害者に対する理解が得られること、であると考えます。

最後の点は、犯罪が少ない我が国にとって、当然のことながら
被害者の方々の数が少ないこともあり、被害者が理解しがたい存在、
あるいは運が悪かった稀有な存在、
被害者側にも非があったのだろうという「真実」に基づかない
誤解を受けてしまう存在として認識されてしまっていることが多々あり、
この点が被害者を一層苦悩に陥れていることになっています。
特に家族からも疎遠になってしまうようなケースも存在します。

こうやって見てくると、まろんが目指すべきであると主張していることが
なんとなく理解していただけるのではないかと思いますが、
我々が進むべき道というのは、
①死刑廃止を推進すること
②被害者を援助し、支え、勇気や強さを与えることができるサポート体制を早急に充実させていくこと
③我々すべてが、被害者になりえるということを再度理解しなおし、
被害者に対する理解を深めること
特に③はまろんが最も主張したいことでもあります。
もしかしたら③が実現することで、悲しむべき犯罪そのものを
より減少させることも可能かも知れません。
究極に目指したいと目標はそこなのですが、、、
posted by まろん at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 制度 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする