2015年01月16日

料理の写真はこうやって見せないとダメですよね、、、

今週は4日しかなかった勤務の最終日に2時間弱ぐらい
残業してしまったまろんは、少し疲れた体ながら、
皇居を右手に見ながら、九段下駅まで歩き、
そこから東京メトロ東西線に乗って、自宅がある
葛西まで帰ってきました。

もう出勤は都営新宿線、帰宅が東京メトロ東西線が
ほど90%ぐらいの割合になってきたのですのが、
帰宅だからといって東西線が空いている、
ということはなく、多少空間はあるものの、
場合によっては前後左右ぶつかる程度の混雑度が
あります。
今年の3月には、JRの常磐線の上野東京ラインが
開通し、山手線や京浜東北線の上野御徒町間の
混雑が緩和されますので、東西線はついに
全国一の混雑度を誇る路線になってしまいます。
その不名誉を避けるため、今東西線では、
混雑緩和策のための工事に色々と着手している
らしいのですが、果たして、どれだけの効果が
あるのでしょうか?
楽しみなところです。

さて、自宅に戻ったまろんは、またよや会社での
同僚との会話の中で、今日は春巻にすることが
決まっていたので、早速材料等の準備に
取りかかりました。

冷蔵庫から失敗率0%の春巻の皮、人参、もやし、
先日3パック1000円という罠?(笑)にはまって
買ってしまった豚のバラ肉、チーズを取り出し、
常温のたまねぎ、そして春巻にはセットの
フライドポテトをするためのじゃがいもを
それぞれ用意しました。

まあ、いつもの春巻なので、途中は省略し、
完成はこんな感じになりました。
画像


春巻なんて、確かに皮のパリパリ感がわかる
写真もいいですが、やっぱり中身ですよねえ。
ということで、中身がなんとなくわかる写真に
してみましたが、どうでしょう?

今回はいつも使う大葉がなかったのと、途中で
材料が足りなくなって、じゃがいもをそのまま
入れてしまうなど、なかなかのハプニングでしたが、
味は若干濃い目で、何もつけずに美味しく
食べることができました。

春巻は今のまろんの中でははずれのない料理です。(笑)
posted by まろん at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | ひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

表現の自由って何?

我が国の憲法では、21条1項で
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」
と規定され、
アメリカの修正憲法では、以下和訳にて、
「合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律、言論または報道の自由を制限する法律、ならびに、市民が平穏に集会しまた苦情の処理を求めて政府に対し請願する権利を侵害する法律を制定してはならない。」
と規定されているように、自由国家の国民には、広く世界的に
等しく表現の自由が保障されていると、されています。

ただし、その表現の自由が保障される基礎となったのは、
1.人の自己人格形成のために表現という行為が、
重要であること
→つまり自己人格形成のために必要だからなのであり、
また
2.強大な権力を持ち、個人の生活や言動を抑制する
可能性が高い国家や政治などの、対権力から国民を
保護すること
→つまり、個人間の関係性にまで、普遍的に
保障されるということまでにはならない、ということなのです。

これを法律的にいうと、
1は「自己実現の価値の保障」
2は「自己統治の価値の保障」ということになります。

さて、先日フランスにおいて、とんでもないテロ事件が
発生し、世界中を巻き込んだ、表現の自由に関する
凄まじいまでの世論が沸きあがりました。

彼の地フランスに各国の首脳が集まり、300万人という人が
表現の自由を訴え、躍動し、自由を力で、血を流しながら、
刀と銃で勝ち取ってきたフランスなどの欧米の自由国家の
自由を希求するその力強さと凄さをまざまざと
感じさせられました。

しかし、今回の事件のきっかけとなった諷刺画、
あんなものが、本当に血を流し、多くの犠牲を
出しながら勝ち取ってきた自由によって
守るべきものなのか?
表現の自由の一部でもあり、人の最も信じ、愛し、
最後の心のよりどころであり、砦にもなりえる宗教
という聖なる、大切な自由を揶揄し、傷つていることを
無視してまでも守るべき表現なのか?

そのことを率直に感じざるを得ません。
これは、まさに欧米のキリスト教国家の傲慢さ
そのものではないかと感じるのは、何も
まろんだけではないはずです。
※厳密にいえば、当該出版社ではキリスト教を
風刺する画像についても、表現されていますが、
そこが重要な点ではありません。念のため。

自由国家はいったいどうしてしまったのでしょう?


さて、翻って我が国を観てみると、、
1.中国や韓国の様々な横暴に対して、なんら理念もなく、
ある意味で人生の中でたまった鬱憤やストレスを
発散しているだけにしか見えないヘイトスピーチ、

2.確かに話題を振りまいて、人気を維持するのが
芸能人の仕事であるとはいえ、そんな芸能人の
活動やブログの記事に対して、ばかげているとしか
思えないどうでもいいような誇張した批判、批評を
するだけの無価値な数々の記事、

3.まるで女性は裸にならないとだめなの?
色気を魅せつけないとだめなの?と、女性蔑視の
価値観をぐいぐいと押し付けてくる記事

4.「批評家」「解説者」などの肩書きだけは立派だけど、
何も知らず、調べようともせず、労せず、ただ、
それらしいことを、さも真実のように無意味な、
無価値なことだけが語られた表現、

そんな意味のない表現が、ますます広がってきているように思えてなりません。

そのきわみが、公的なものでもある新聞やテレビ、映画ですね。

ただ、そのことについて、ふっと思いを馳せ、
考えていると、実はこういう我が国の傾向というのは、
我々の表現に関する率直な価値観から、
生まれただけなのかもしれないと、最近思いはじめました。
そして、まろんブログで記事にしましたが、
そんな我々の愚かさが、それに相当する
政治家を作り出してきたのだ、と



表現にも、先ほど触れたような「自己実現の価値」
「自己統治の価値」に相当する表現は、何がなんでも、
保障し、守り、場合によっては、刀や銃をつかんででも、
守らなければなりません。
そこには、納得いきますし、それはまろんも実行します。

しかし、表現にも相応の配慮や、触れてはならないことは
当然あるはずなのです。
また、仮にそこに触れることが必要不可欠なのであれば、
相応の対話や議論が、そして覚悟が必要なはずなのです。
あの諷刺画の表現が、あれだけの人命を犠牲にしても、
守る価値のあることなのか?
そのことに触れることなく(一部触れている媒体もありますが、)
表現の自由だけを声高に、主張されていることに
どうしても、論理的に納得がいきません。

これは、欧米のように血を流して、刀と銃で
戦って自由を勝ち取ってきたという歴史に薄い
日本人である、まろんだけの想いなのでしょうか?

殺人やテロということが、最大の悪であり、何をおいても
許せない所業であることは、当然です。
であるならば、そこに至らないように、それぞれが
それぞれに、相手のことを慮って、配慮することも
大切な「自由」のはずですよね。
そこに何故今気づかないのでしょうか?
posted by まろん at 00:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 「まろん」の知恵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする